津波で家を失った少年が甲子園へ!

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東日本大震災宮城県気仙沼市の自宅を失った野球少年が、避難先で進学した高校で甲子園出場をつかんだ。札幌第一(北海道)の宮井健男君(3年)。チームは健大高崎(群馬)に1―11で敗れたが、「故郷の人に頑張っている姿は見せられたと思う」と話した。

 10点差の九回、2死一塁の場面で「代打宮井君」が告げられる。公式戦で守備につく機会はあるが、打席に立つのは初めてだ。「後悔したくない」と思い切り振った7球目は中飛となり試合終了。「打ちたかったけど、甲子園はオーラが違った」とはにかんだ。

 宮井君は6年前の3月11日、宮城県気仙沼市の小学5年生だった。授業中に揺れに襲われた。海岸から約1キロの自宅に戻り、母の久子さん(45)や弟、祖父母の5人で車に乗り込んだが、道は避難する車で渋滞。振り向くと津波が家々を破壊していた。車を捨て、高台に走って逃げた。

 津波が街をのみ込む光景を覚えている。自宅は流され、少年野球で使っていたバットやグラブを積んだ車も津波にのみ込まれた。

 約2カ月後、祖父母は気仙沼に残り、家族4人は父が学生時代を過ごした札幌市に移り住んだ。「息子は震災のショックでやせ細っていた」と久子さん。

 宮井君は市内の野球チームに入った。「また野球をやれてうれしかった」。その後、札幌第一に進み、遠投100メートルの強肩と複数ポジションをこなす器用さを武器に練習に励んできた。昨秋の北海道大会はベンチ入り。その後、一度はベンチから外れたが、3月上旬に背番号「17」をつかんだ。

 スタンドから見守った久子さんは「いろんな苦しい経験もしたけど、今日の打席では一層、たくましく力強く見えました」とほほえんだ。

 気仙沼で一緒に野球をした友人たちは地元に残ったり、他県に移り住んだりと様々な道を歩む。今でもメールやラインで連絡を取り合う。大会前、福岡に移り住んだ友人からは、「がんばって」と応援された。

 試合後、「気仙沼の知人にはもっと出ている姿を見せたかったけど、甲子園に出られて僕は恵まれている。打てる選手となり夏に戻ってきたい」と話した。

とても辛い思い出がありながらも周りの人達に支えられ甲子園のチャンスを掴んだ少年。可能性はどんな人にも平等です。その可能性を潰すのは受け入れない人達です。可能性を潰すだけの社会を変えて沢山の人達が活躍できる世の中になれば良いのになって僕は思います。

以上、今日の梶原吉広おススメニュースでした!!